ジャッジとは
ジャッジとは、「良い・悪い」の二択で「良い」を肯定して「悪い」を否定する考えのことです。
「これはいいけど、これはダメ、」などの誰しもが多少なりとも持っている考え方のクセです。
スピリチュアルでよく出てくることがあるが、スピリチュアル関係なく知っておくと良いことだと思います。
よくあるジャッジの例
- こうなったらだめだ
- 今のままではだめだ
- これは良いけどこれはダメ
- 稼げることは善で稼げないことは悪
- 成果が出れば善で成果が出なければ悪
- 空気を読める人が善で読めない人は悪
- ルールを守れたら前で守れないと悪 など
どっちの道でもOKと心の底で思えた上での「何を選びたいか?」が大切です。
ジャッジが入ると判断が濁ってしまったり、自己否定してしまうこともあります。
ジャッジして人を裁くことは快感
ジャッジして人を裁くのはとても快感なことです。
正義中毒という言葉もあるくらい自分が正義側にいれるというのはやみつきになるもの。
ア〇パンマンとか戦隊モノとか水〇黄門も明らかな悪者を倒す、という流れですよね。
それだけストーリーとしても人間が引き込まれる構図なんだと分かります。
正義中毒とは
「自分が絶対に正しい」と思い込み、自分の考えに反する他人の言動を許せなくなり、”正義”のもとに過剰に相手に攻撃的な言葉・行動を行って叩きつぶそうとすること。
他人に「正義の制裁」を加えると、脳内から快感物質であるドーパミンが放出されます。
脳科学者の中野信子さんによれば、この快感は強烈で一度はまってしまうと簡単に抜け出せなくなるそうです。
ジャッジして相手を非難することは実は気持ちが良い行動なんですね。
ジャッジするメリット
自分を肯定できる気になる
自分は正しく、相手が間違っている、というのは、自分が認められた気がして気持ち良く感じます。
自分で自分を認められない人は自分を肯定するツールとして「ジャッジ」は魅力的に感じるかもしれません。
努力せずともジャッジして人にダメ出しをすることで自分を保てる気がしますからね。
善し悪しが決まっている場面では判断を早くできる
仕事や運営ルールなどで良い悪いを決めたほうがスムーズになる場合もあります。
ただし、それは人生にとっては一部分や一場面にしかすぎません。
例外なく明確に善し悪しが決まるものはほとんどありません。
「ずっと必要」「すべてに適用される」というわけではないので注意が必要です。
デメリット
生き辛くなりやすい
判断が「良い」「悪い」の二択しかないと、常に「良い自分」でいなければならず、息苦しくなってしまったり、人生における選択肢が狭くなってしまいます。
正義感が強い人や真面目な人はこのジャッジの頻度が高め。
人生において白か黒かできっちり分けられることは少なく、「グレー」が大半です。
真っ白以外を受け入れられないのは逆に偏った考え方です。
自分が偏りに縛られて生き辛くなってしまうのです。
少しの価値観のズレすら許されないストレスフルな状態を自分で作り上げています。
自分の人生の選択肢も狭めてしまう
世の中には良い、悪いで分けられることは少なく、大半は中間のグレーです。
たとえば、努力で成功した人を善、運で成功した人を悪、として考えてしまう人がいたとします。
だれしも、自分が悪にはなりたくないないですから、自分に大きな幸運がめぐってきたときには悪としてそれを拒否してしまうのです。
もしくは、幸運をつかめたとしても、自らそれを台無しにしてしまう行動をとってしまったりもします。
なりたい自分に気付けない
人は嫉妬するときにも不快な気持ちになります。
人生がうまくいく人は嫉妬を”なりたい自分”に気付くセンサーとして使います。
嫉妬を利用して自分の人生を変えようとします。
うまくいかない人は不快な気持ち”だけ”を解消しようと嫉妬させた相手を悪に仕立てあげていきます。
なりたい自分に気が付けないので、そこに向かう努力をすることもできず、人生の停滞感を感じ続けることになります。
自己否定や劣等感も強くなりやすい
人間、常にジャッジの善の側にいれるわけでもありません。
たとえば、できる人は善、できない人は悪、というジャッジをもっていれば、
”できない自分”を感じたときに自己否定や劣等感が出てしまいやすいのです。
- できない自分を責めてしまう
- 人と比べて落ち込んでしまう
- うまくいかないことに劣等感を感じてしまう など
すべてにおいて「できる人」などいません。
ジャッジの思考が強いほど自信や自己肯定感を下げてしまいます。
客観的思考が欠けやすい
ジャッジしている状態というのは、客観的思考が欠けていることがほとんどです。
1つ上へ視点を上げて客観的に物事や行動をみることをメタ思考、メタ視点、メタ認知などといいます。
俯瞰してみる、というのは問題解決の基本ですが、感情や思い込みに囚われると難しいものです。
人間関係のトラブルにもなりやすい
他人も自分も許せない人になって人間関係のトラブルにもなりかねません。
ジャッジしてしまう人は人から許してもらった経験が少ないのかもしれません。
「人には人の事情があるだろうから、許してあげよう」みたいな話も、
人から許してもらった経験が少ないと、
「私は私の事情をくみ取ってもらったことなんてないのに、なんで私だけそうしなきゃいけないの?!」
という気持ちにもなりますよね。
そういう考えに至るのは当然のことだと思います。
ただし、許せることが少ない、というのは人間関係の摩擦の原因にもなりやすいのです。
スピリチュアルとのかかわり
スピリチュアルでなぜ出てくるかといえば高次元の存在はジャッジがなく大きな愛の存在だから、と言われています。
高次元に近い考えになることで、高次元とつながることができるという考えです。
また、「魂の声」という概念もあります。
魂の声とは
自分の潜在意識の深い部分での本音のこと。
本音では嫌だと思いつつ、損得勘定でやっているのは魂の声から離れた状態です。
(嫌な仕事を無理に続けることなどもここに当てはまりそうです)
魂の声は無視すればするほど聞き取りにくくなります。
スピリチュアルは人が生きやすくなるツールです。
本音を無視することは生き辛い行為なので、よく語られるのだと推測されます。
ジャッジは悪、というジャッジもある
人間ですから完全にジャッジをなくすのは無理です。
ジャッジは悪である、というのもジャッジの1つになりえます。
仕事や運営のルール上で良い・悪いが決まっていたほうがスムーズな場面だってあります。
そもそも、ジャッジしまくると生き辛くなるよ、というだけなので、
「ジャッジしまくって生きずらくなりたい!」という人はどんどんジャッジすればいいんです。
それはあなたの人生なのであなたが選べること。
ジャッジをしない自分になるには?
そもそもジャッジしないとはどういうことなのでしょうか?
身近なところでいえば、食べ物の「美味しい」「美味しくない」という判断も二択の考えですよね。
このような二択の判断を完全になくすことは無理な話です。
ジャッジは判断の二択を善か悪かに分類してしまうことです。
「美味しい」は善、「美味しくない」は悪、と分類してしまうのがジャッジになります。
ジャッジは無意識に起こります。
今までの環境、親などのジャッジの基準にも影響されます。
では、本当に「美味しい」は善、「美味しくない」は悪か?といえばそうではありません。
自分にとって「美味しくない」と思うものでも他の人は違うこともありますよね。
それに、「美味しい」から食べ過ぎて太ってしまうこともあるし、
「美味しくない」でも良薬口に苦し、のようなこともあります。
全てを善か悪かでは語れないのです。
そこを善悪で語ろうとするからズレが生じます。
”ジャッジしない”とは「美味しい」「美味しくない」のどちらも食べ物も
「それはそれでアリだよね」「世の中にはそういうものもあるよね」と善にも悪にも偏らずにフラットに受け止めることです。
大事なのはあなたはどうしたいか?
ジャッジせずにフラットに受け止めることができたら、次に大事なのは「あなたはどうしたいか?」です。
「美味しい」を選んでも、「美味しくない」を選んでもどちらでもOK
もし、このときに自分が選んでいない選択を否定する考えになれば、まだジャッジしています。
フラットになっていないからです。
本当にジャッジを手放している状態は選ばなかった方に対する感情もフラットなんです。
ジャッジしている自分を見つけるには?
ジャッジしている自分を見つけるには、内観がおすすめです。
内観とは自分の内面と向き合うこと。
⇒内観とは?どんなやり方がある?1人で気軽にやる方法も解説!
内観の記事を書いている私でも、ジャッジの考えが起こる事はよくあります。
ジャッジしまくっていたり、感情の整理が苦手だったからこそ、内面を見つめる内観をやり始めました。
私の具体的なやり方はこちら。
ジャッジにはいろいろな種類があります。
自分の停滞感を起こしているジャッジを手放せれば、軽やかに生きることができるので、ぜひあなたも内観してみてくださいね♪